ギフテッドの人生。絶望、苦労、不幸で鍛えられた時代の直感が本当だったこと。

ギフテッドの生き方

今こうして私がブログを書いているのは、自分にそれくらい余裕ができたからで、余裕があるのは自分なりに幸せでいるからです。

私も「自分はギフテッドの特徴に当てはまる」と思った時点では、一生不幸であることを当然のように覚悟していました。

 

それがどうして幸せになれたのか?というと、

圧倒的不幸、不遇があり、それが心の底から嫌で、「絶対に幸せになりたい」という強烈な意志を持てたからだったと思っています。

 

すべてがその強い意志から始まっています。

 

 

私の過去は、ギフテッドに生まれたことも含めて、自分ではどうにもできない逆境の連続でした。

子供の頃から仲良くしていた人たちも、私がひどい不幸にあっているのを知って、どんどんいなくなっていきました。私が過去の私の友人だったとしても、あまりに気の毒でかける言葉がないので、距離を置くしかなかったと思います。

 

「誰も助けてくれない」

「死ぬほど苦しい、追い込まれている」

そういう状況にあった中で、私には確かに2つの直感があったから、くじけずにやってくることができました。

 

それは、

  • 私がありえないくらいしつこく不遇に追い込まれるのは、私に見込みがあるからだ。その逆境から学んで成長できたり、他の人たちに貢献できる見込みがあるからだ。
  • 「助けがないことが助けである」。助けがないから、自分で自由に自分を助ける方法を考えることができる。自力で地獄から這い上がるという貴重な経験をすることができる。

という直感です。

そしてそれは現実になったのでした。

 

 

今の時代の流れである、

  • 逆境、苦労、不幸をみんなでなくしていこう
  • 苦しい人は、ひとり残さずみんなでサポートするべきである

という考えは本当に真実で、進めていくべきだと思います。

 

しかし一方で、人は

  • 逆境、苦労、不幸
  • 孤軍奮闘、創意工夫

を体験しうまく乗り越えればものすごく成長できること、それが他のポジティブでハッピーなやり方では代え難いことも事実です。

 

映画、小説、漫画、ドラマなどの主人公は必ずネガティブなことを経験して、乗り越えていきますよね。

人の心には、そういうものに憧れたり、価値を置く気持ちがあるのだと思います。

 

だから今、人を助ける側にあっては、

  • 人にはネガティブな体験をする権利もある
  • 黙ってただ見守ることが愛である場合もある

と思います。

 

 

今では過去のメチャクチャな苦境も、「ギフト」だったと本気で思っています。

 

圧倒的な苦しみは、生意気でわがままだった私の性格を少しは大人にしてくれました。

そして、「そこそこ生きられてる」以上の「確かな幸せ」を渇望する意志が生まれたことで、生きる気力や、いろいろな体験を生み出す動機になってくれました。

 

誰も助けてくれなかったことは、自分の知的好奇心を満たす上でとても大きなアドバンテージになりました。「こうしたらこうなる」という危なっかしくて貴重なサンプルをたくさん集めて、何の枠にも囚われず自由に発想することを楽しめたからです。

(死ぬほど苦しくても知的好奇心によって癒されるというのは、本当にギフテッド生まれの人の知的好奇心は強いのだと思います)

(→この時の発想の成果は、「ユリシーのギフテッドモデル」や「存在のねじれ理論」に活かされています)

 

もちろん、誰でも私のように自力の体験をする必要はまったくないです。

助けてくれる人がいるなら、その人にたくさん助けてもらうことも、とても素敵で大切な体験です。

でも、一般に思われているのと違って、自力で這い上がることもそんなに悪いことだけじゃなかったのです。

 

思えば、私を苦しめた大きな原因として、ギフテッドの特徴である「感覚過敏 OE」「普通ができないこと」があったけど、

同時にギフテッドの特徴である「直感」「知的好奇心」によって助けられていたんですね。

 

やっぱりギフテッドの人生は苦労が多いけど、私にとっては面白いです。

みんなも一緒に負けずに生きていきましょう。

 

直感を信じて進めば、きっといくら思い巡らせても計算できなかったようなすごい景色が見られる人生ですよ😸

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